「 背を向けるのを、やめようか

振り向くのを、忘れるのを、やめようか

もう、やめようか 」

 

 

 

 

 

―――静かに、夏の始まりが告げられる―――

 

 

 

 

 

HANATABA the first

エリンギウム

written by HIDE

 

 

 

 

 

柔らかな春の日差しを、閉じた目の目蓋越しに感じる。
朝が来たらしい。

休み明け最初の朝……起きなきゃ駄目だ。 でも、あんまりにも日差しが気持ちいいものだから、もう少し浅い眠りを続けたい。

そう思っていたのだけれど、そうはいかないらしい。
僕の真横に伸ばしていた右腕から、今までかかっていた重みがスッと消えたのだ。

すぐ後に、キッチンへ続く気だるげな足音が僕の耳に届く。
さらに、ガチャガチャと食器の擦れる音と、何かを焼く音が耳に届き、次いで鼻に匂いが届いた。
睡眠欲に勝る、食欲――それを僕に感じさせる香ばしい薫りだ。

仕方が無いな、と軽く溜め息を吐きつつ体をベットから起こす。
同時に、開けた目蓋には閉じていた時とは比較にならない日差しが入り込んだ。
少し眩しい。

そのまま視線をキッチンにずらすと、今日も楽しそうに朝食を作る彼女の姿が在った。
彼女は、ジッと彼女を見つめる僕の眼差しに気がついたのか、毎日の慣れによる行為なのか、 僕が起きたのを察知して、すぐにこちらを振り向いた。
そして、僕に笑顔を向ける。 だから、僕も笑顔で返す。
おはようの挨拶の前に笑顔。
口には出さないけれど、何となくそれは二人の暗黙の了解だった。

「おはよう」
「おはよう」

その後に朝の挨拶が続き、彼女が作った朝食を食べる。
毎日、変わらない、少し前からの日常の世界だ。

僕の目に映るのは、小さな茶色のテーブルに乗せられたハムエッグとグリーンサラダ。
そして、横のトースターから姿を見せたこんがり焼けたパン。
揃えられた朝食を食べながら、ふと彼女に視線を移す。
何故か彼女は笑っていた。

「どうしたの?」
「なんてもないわ」

僕が聞いても、何も教えてくれない。
でも、何となく僕もその理由が分かる。 不思議だけど。



幸せ、だからだと思う。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

ドアを開けて外に出ると、そこには青い空が広がっていた。
快晴、というやつだ。 雲一つない。
周りを見渡すと、春の景色そのものの若草が風になびいている。

「春、か…」

誰に言うのでもなく、独り言を呟く。

「…あ! …ハハ」

こんな所――独り言を呟く所――も、あの頃と変わっていなくて、思わず笑った。

あの頃は春がまた来るなんて、思ってもいなかった。
だから、訪れる四季の流れがなんとなく嬉しい。
僕の、いや、僕達のやったことは無駄じゃなかったんだって思えるから。

 

 



しばらく歩くと、薄灰色の壁、そして、クリーム色の校舎が見えた。
休み明け最初の大学。 久しぶりの校舎は何だか違って見える。
勿論3ヶ月やそこらで変わるわけは無い。 だから、きっと校舎ではなくて、僕が変わったからだと思う。
僕が、というか僕の生活が、かもしれないが。

少し時間が早い所為か、僕以外の生徒の数はまばらだ。
中学、高校と早起きを同居人に強いられた所為か、大学に入って以来、何となく時間ギリギリまで寝ている癖がついてしまった。
だからこそ、こんな時間に大学に来るのは久しぶりで、いつもごった返していた校門前が静かなのはなんとなく馴染まない。
一緒に住み始めた、まぁ世間一般で言う同棲を始めた以上は、毎日この時間に来るんだろう。
だから、そのうち慣れる。

そこまで考えたところで、もう講義室につく。
何かを考えながら歩くと、普段は遠く感じるこの場所もなかなか近く感じるものだ。

 

 



「ねぇ?」

終了時刻を遥かに越えた講義を聞き終え、急いで立ち去ろうとする僕に、後ろから声がかかった。

「ん?確か……比隆(ひりゅう)さん、だよね」

違ってくれたら、会話は消えるに違いない。 自分の名前を間違うような人間とは、話したくなくなるのが普通だから。
間違いない――それは分かりつつも、こんな希望を持つのは矛盾しているとは思う。
けど、どうも性分らしいので仕方が無い。

「ええ、そうよ」

どうやら、というかやっぱり、本当に比隆さんらしい。

「僕に何か?」
「君って、確かユーグ先生に習ってるのよね?」

ユーグ=カーペ先生は現役の優秀なチェリストでありながら、教え上手と評判な、なかなかの人物だ。
僕には、ただの堅物にしか見えないけれど。

「うん、今日もこれから行くけど…それが?」
「私が習ってた先生、えっと、マギール先生が都合で国に帰っちゃったのよ。
 それで、これからはユーグ先生に習おうと思ってるの。
 だから、君から先生に紹介してもらえると嬉しいかなって」

マギール先生は確か、ビザが切れたとか何だとかで、国に帰った筈だ。
冗談が通じないマギール先生は、あまり好きではなかったので何も感慨は無かったのだが。

「別にいいけど…何も僕じゃなくても」

比隆さんとは、何度か講義で一緒になって挨拶を交わしたことがある程度の仲だ。
そこまで頼られる覚えがない。

「何言ってるのよ。ユーグ先生が次のコンクールで推すのは君だって専らの噂よ?
 どうせ紹介してもらうなら、気に入られてる人の方が良いに決まってるじゃない」

違う? って顔で僕の顔をまじまじと見る比隆さんは、何だか妙に自信満々で、昔の同居人を思い出した。

「…はぁ…気に入られてるわけじゃないだろうし、別に僕に決まったわけじゃないだろう?」
「御託はいいからさ、紹介してくれたって良いんじゃないの?」

そう言って、彼女は僕の腕を掴んで引っ張る。
強引な所までそっくりだ…。

 

 



ユーグ先生の家につく。

「遅刻だぞ…」

家に入った途端、白髪交じりの偏屈そうな老人――ユーグ先生が、流暢な日本語で僕にそんな事を言う。
遅刻したのは僕の所為じゃなくて、遅れた講義と僕を引きとめた比隆さんの所為だと思うんだけど。
ただ、20分も時間をオーバーしたためか、いつもはち合う、僕の前に教わっている生徒の姿は無い。

僕の通う第二東京音楽大は変わったシステムをとっている。
自分の専攻する楽器を、幾人かの学校指定の先生から一人を選んで、教わる事になっている。
先生が気に入らなければ、いつでも先生を変えていいし、どの先生にどれだけの期間習うのかも自由だ。
先生が断るのも自由だが。

大きなコンクールに出るときは、習っている先生の推薦を得て出る事になっている。
しかも、一人の先生につき一人の生徒を必ず推薦する決まりだ。
だから、わざと生徒の少ない先生に就いて、推薦を得ようとする人も結構いる。
ユーグ先生が抱える生徒は、ざっと30人。 生徒数はかなり多い方だ。
最初は50人いたにも関わらず、コンクールが近い所為か一気に抜けていった。

今から、わざわざ生徒数の多いユーグ先生に教わろうとする辺り、比隆さんは相当巧いのかもしれない。
どっちにしろ、今日ここで比隆さんの演奏を聞けばハッキリするだろう。

 

 



驚いた。
巧いとか、そういう次元じゃない。プロと比べても何ら遜色ない、比隆さんの演奏はそれくらい凄かった。
紹介なんてするまでもなく、ユーグ先生は入門を認めた。
僕が入門させてくれって言ったときは、散々答えを保留していた挙句に、『仕方が無い』なんて言ったユーグ先生が即決でだ。

「比隆…とか言ったな。アリャ逸材だぞ」

彼女が帰った後で、僕に弾かせながら、嬉しそうに先生がそんなことを言う。
僕は褒められたことなんか一度もないのに、だ。

この堅物が嬉しそうにしているのを、僕は初めて見る。
何故だか、少し悔しい。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

今日も変わらない日差しに、目蓋を開いた。
そして、今日も彼女の作った朝食が目の前に並ぶ。

茜色の箸で慎重にハムエッグの黄身を崩す僕に、彼女が少し難しそうな顔を向けていた。

「何? どうかしたの? 難しそうな顔して…」
「難しい顔してるのは、そっちでしょ?」

言われてみれば、少し眉間に皺が寄っている気がしないでもない。

「昨日の夜から、少しおかしいけど?」

そう。 そうなのだ。
昨日の夜から何だか…少し、そう…少しおかしい。
と言っても、原因は分かってる。

昨日の晩、ユーグ先生の家からの帰路で会ってしまった。


銀髪の男――渚カヲルにだ。

 

 



日中はある程度、気温も高くて暖かい。
それも夜となると、ガラリと冷え込む。
少しの寒さに身を捩りながら、僕は塀際を歩いていた。

ここからすぐ近くにある、青いジャングルジムのある大きな公園。
そこの入り口で、僕等はすれ違った。
一瞬、アレ? と思って振り返り、そして、振り返るとアア…! って思った。

被ったニットからはみ出た、銀の髪。 僕と同じくらいの背格好。
視線が絡まった時の、紅い瞳。
僕が一度殺した、彼だ。 間違いなかった。

「…やあ」
「…………やあ」

彼の薄い笑いを伴った挨拶を、僕は同じ様に、僕の方はぎこちない笑みで返した。
――沈黙は僕の方が長かった様に思う。

「久しぶりだね」
「そうかな…?」

分かっていて聞く。
当然だ。
僕が意図的に避けていたんだから。

「そうだよ…。 君は僕を避けていただろ?」
「そんなことないよ…」

あるくせに繰り返す。

何だか同じ様に続くやり取りが、酷く滑稽に感じた。
同時に、言葉と言葉の少しの間が、彼との失った時間のようで寂しくもある。

「まぁいいさ…。 今度ゆっくり会えないかい?」
「うん……今度…」

何でもいい。 早く、彼と別れたかった。
幸い、二つ返事でも避けられるよりは良いと思ったのか、彼は電話番号を伝えると、すぐに行ってくれた。

「ウゥ…オェ……」

その場でしゃがみ込んで、嘔吐した。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

気持ち悪い…!

 

 



「だって、自分が殺した筈の人間が、また目の前に現われたら…気持ち悪い…だろ…?」

彼女は、よく分かっていない様な表情で、目を細める。
そして、一度だけ溜め息をつくと、僕に囁くように語り掛けた。

「……それは、あの夏の――第三での時のこと?」
「…うん」

第三――第三新東京。
僕と彼女、そして彼が居た街…。
全てが終わった後、僕等はまとめて第三から移住した。 いや、移住させられた。
だから、すぐ近所に彼が住んでいる事も知っていたし、他の昔の知り合いも殆ど近所に住んでいる。
それでも、意図的にずっと避けてきた。
誘われればかわし、話し掛けられそうになれば急ぎ足で遠のいた。
ずっとそうしていれば、あっちから近付かなくなるだろうと思っての行動だった…。

「時間…」
「え?」
「時間って偉大よね…。 嫌な事も良い事も、時間は全て消してくれるもの…」
「…うん」

そうだと思う。
時間が全てを僕から忘れさせてくれた。

狂いそうな、いや、あの時の僕は狂っていたし、周りの人間も例外なく何処かが狂っていた。
あんな過去は頭からも、体からも、消えてしまえばいい! ――そう思っていた。
そのうち、そう思っていた事でさえ全てを避けることで忘れていたし、今だって殆ど忘れている。
覚えているのは、僕等が戦った事実と、それが無駄ではなかった事実。
それと、戦いに関わった人たちとの薄い記憶と、今とあまり変わらない彼女の姿。

それだけだ。

「私はあの時、私たちに何が起こってどうなって、何が真実で、誰が死んで甦ったのかなんて知らないわ。
 私はアスカや綾波さん、貴方みたいにアレに乗っていたわけじゃないもの。
 それに、私もあの時のことはあまり思い出したくないわ……嫌な事ばかり思い出してしまうもの」

そう言った彼女の瞳が揺らいだのは、きっと、僕のせいでトウジの事を思い出した…からだろうな。

「ごめん。 嫌な事思い出させて……」
「……ううん」

僕に気を使ってか、彼女はすぐに笑顔になった。
いやにたどたどしい笑顔が、僕の瞳に焼きついた…。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

僕はあの時、直接的に二人の人間を殺した。
一人が渚カヲル。 もう一人が鈴原トウジだ。
一人は再び僕の目の前に現われて、一人は墓の下と、僕と彼女の心の中にしかいない。

殺した事で負った負担は僕が背負って時が来れば忘れられるし、 実際、本質的には忘れていなくても、今まで思い起こす事は無かった。
でも、もしも――もしもだ。 また、目の前に現われればどうすればいい?
知らないし、そんなこと知りたくも無い。 どっちにしろ、ただ気持ちが悪いだけだ。

そんな事を考えながら、今日も学校への道を歩いていた。

「ねぇ?」

昨日と同じ様な問いかけと、声色ですぐに分かる…。
きっと、いや、確実に比隆さんだろう。
人と話す気分じゃない以上は、このまま振り向かずに歩いた方がいいに決まっている。
だから、僕は聞こえていない風を装って、少し足を速めた。

「ねぇってば!」

そうすると、彼女も足を速めて、僕を追いかけて来るのが気配でわかる。
更にスピードを上げると、足早にトイレに入った。
流石に男子トイレまで追ってくるなんて事は有り得ない。
少しムキになったか、とは思うものの、ここならある程度落ち着いて思考に沈む事が出来る。
薄いグレーの窓に背を預けながら、講義の時間までここで時間を潰し、講義が終わったら何か言われる前に サッと帰る――そう決めた。

 



筈だった。
なのに、何故か僕の隣には比隆さんがいる。

「全く、男子トイレに入るなんて信じらんないわ。
 私が健気にも『待って』って言ってるにも関わらず、関わらずよ!」

彼女には静かにする、という選択肢は存在しないのだろうか?

「仕方ないからトイレの前で待ち構えてれば、君は出てきた途端に私の顔を見るなり『うわぁ』って顔するし。
 信じられないにも程があるってもんよ!」

どうやら無いらしい。

「それで、僕に何の用かな?」

捉まえられた以上は、すぐに話を終わらせるのが最良だ。
でも、溜め息をつきながら言った事がばれたのか、彼女は少し怒った様な口調になる。

「何なの、そのスッゴイ嫌そうな口調は?」
「そうかな?」
「ま、いいわよ。 所で、君は先生変えないの?」
「っえ?」

何を言ってるのかわからない。 僕が先生を変える?
つまり、僕はユーグ先生から他の先生に変えないのか、という事だ。
僕にそのつもりは全く無いし、彼女がどうして突然そんな事を言うのかも心当たりが無い。

「どういうこと?」

だから、正直に聞いてみる。

「どういうことって…だって、それが普通でしょ?」
「普通?」
「いっつもそうなのよ。
 私が習い始めると、どういう理由か今までその先生に習ってた人達が次々と他の先生に移るのよねぇ。
 で、君は先生を変えないのかなって」

それは彼女の演奏が優れているからだと思うけど、要は自分の実力を遠回しに自慢しているのだろうか?

「比隆さんが巧いから…じゃないのかな?」
「そう? やっぱりそう思う?」
「別に誉めたわけじゃないんだけど…」

どうも、彼女との会話はこじれる上に、疲れる。

 

 



「それで、貴方は先生を変えないの?」

夕飯を食べ終わってテレビのスイッチを入れた所で、彼女が馬鹿なことを聞く。

「なんで僕が変える必要があるのさ?」
「だって、折角コンクールに出られる筈だったのに、出られないかもしれないんでしょう?」
「そもそも、確実に推薦が決まっていたわけじゃないよ。
 それに、僕はそれほどコンクールに出たいとは思わないよ…」

僕がそう言うと、彼女の眉根は寄り、不思議そうな表情で聞き返した。

「嘘」
「本当だよ」
「嘘よ」
「本当だって」
「嘘」

彼女があまりにもしつこい。
頑固で真面目な彼女のことだ、理由を聞かないと収まりそうにない。

「どうして嘘だって思うのさ?」
「だって、貴方は比隆さんの演奏を聞いて悔しいって、自分より巧いのが悔しいって
 ――そう思ったんでしょう?
 比隆さんよりも巧くなりたいって思ったんでしょう?
 負けたくないって思ったんでしょう?
 一番になりたいと思ったんじゃないの?」

どうしてだろう。
どうして、彼女は……。

「どうして、そんなことが……分かるの?」
「だって、貴方が言ったじゃない。
 『全部を捨てたんだ。 それでも君とチェロだけは捨てられなかった』って」

よく、そんな恥しいセリフを覚えているものだ。
自分でも忘れていたのに。

「それから、こうも言ったわ。
 『全てが終わって乗ることを止めた時、思ったんだ――僕には何も無いって。
 だから何かが欲しかった! 僕がいてもいい理由が欲しかった!
 初めは何でもよかったんだ。 でも、今はチェロじゃなきゃダメなんだ…』ってね」

時々、彼女の記憶力が恐い。

「チェロじゃなきゃダメなんでしょ?
 それなら、それでいいじゃない。
 一番になればいいじゃない」

違うの? ――そんな瞳が僕を射抜く。
確かに、比隆さんの演奏を聞いた時に感じた悔しさは本物だ。
間違いなく僕は悔しかったんだ。

でも、違う。

違うんだ…!
僕は比隆さんが僕より巧い事が悔しかった――そうじゃないんだ…!
僕は…僕は……!


「違うんだ……」
「何が…違うの?」


「……ゴメン。 先に寝るよ……」

僕は足早に寝室へ駆け込んだ。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

陽光が眩しい。 真っ青な空にポツポツと雲が散っている。
――晴れた空が僕を照らす。
それでも、僕の心は晴れない。

案の定というべきか、顔を合わせづらくて朝食も食べずに飛び出してきた。
彼女が僕の心根を窺い知る事が出来る筈も無いのに……どうして、どうして…僕はあんな事を言ったんだろうか?

僕を見透かしたような彼女。
でも、彼女が見透かしているのは、僕の本音の上辺。
本音じゃない、本音の中の嘘だ。

彼女がいなくちゃダメなのは変わっていない。
僕は彼女が大切だし、傍にいて欲しい。


酷い矛盾だ。
大切なのに、僕の事をわかる筈が無いと思い込んでいる。
傍にいて欲しいのに、僕の事をわかる筈が無いと思い込んでいる。
酷い矛盾だ……酷い、裏切りだ……。

 

 



大学の薄灰色の壁が、やたらと僕の心の色とダブる。
校舎はあんなにも鮮やかなクリーム色なのに……。

「……ん?」

後ろから足音が聞こえる。
凄い嫌な予感が走った。

「おっはよー!」

足音の主――比隆さんの声が、キンキンと耳から頭に響いた。
正直、今は彼女と話す気分じゃない。
彼女にどんな冷たい言葉を浴びせるか、想像もつかないからだ。

「おっはよーってば!」

まるで小学生。
もしくは、こらえ性の無いお子様そのものだ。
無邪気で元気で明るくて……。

「聞いてるの? おはようってば!」
「やめてよ……」
「無視しといて、そういう態度とるわけぇ?」
「……やめてよ」

やめてよ。 これ以上……やめてくれ…!
今は君の明るさがつらいんだ……!
まるで、僕の醜さが照らされる――そんな気がするんだ。

「君、今…すっごい酷い顔してるわよ?」
「酷い、顔……?」

途端、どこか締まりの無かった彼女の顔つきが変わる。

「でも、そのひっどい顔が本当の顔……じゃないの?」
「……え?」
「何でもないわ……。 講義、遅れるわよ?」

彼女は一体、何なのだろうか?
彼女が口にする何気ない一言が、たまにひどく、僕の心を惑わせる。


彼女は一体、何なのだろうか……。

 

 



今日の講義は音楽史。
あまり僕にとっては興味のない分野だ。
頭の固そうな老人が、ロマン主義がどうとか、バロックがどうとか言っている。
僕の周りの学生もそう。
さしたる興味も持たずに、長いすにボンヤリと座っている。
――眠って、あるいは音楽を聴きながら。

僕だって音楽を志す者として、全く音楽史に興味が無い訳じゃない。
ただ、今はそれ以上に彼女が、比隆さんが、気になる。

僕は講義中にも関わらず、チラリチラリと彼女を窺う。
この音楽史の講義は、彼女と僕が一緒になる数少ない講義の一つだ。
だからなのかも知れない。

今を逃せば暫く彼女を見る機会なんて無いから、なのかな……。
――自分の言葉に自信が持てない。
最も、毎日のように彼女が話しかけてくる以上はそれも関係ないのかもしれない。

じゃあ、どうしてだろう。

どうして、彼女を目で追っているんだろう?


恋?
――まさかだ。

気になる?
――それが一番近い。

でも、一番遠い気がする。


彼女は一体、何なのだろうか?


一つ思い当たるのは彼女の言葉だ。

――『でも、そのひっどい顔が本当の顔……じゃないの?』

彼女の声が脳内で繰り返し再生される。
本当の顔?
何だよ……本当の顔って。
酷い顔が、歪んだ顔が?
本当の顔?

僕の?



わからないよ。
全然わからない。

彼女が?
――違う。

彼女がじゃない。

僕がだ。

それを――その顔は僕の本当の顔じゃない、偽者なんだ! って……言い切る自信が無い――僕がだ。

僕が、わからない。
全然、わからない。

 

 



「……どうしたの?」

昨日の事なんか、無かったような態度で彼女が話し掛けてくる。

目の前には、いつもと変わらない夕食。
暖かいご飯とみそ汁、煮魚とつけもの。 それと、ニラのおひたし。
僕はいつもと同じ様に、生卵を纏わせたニラを()む。
それを見ながら、いつもと同じ様に、彼女はニコニコしてみそ汁をすする。
――変わらない、いつもと変わらない夕食。

ただ一つ違うのは、彼女の笑顔のたどたどしさだ。

無かったことになんて、できっこない。
彼女の笑顔は曇っている、哀しそうに、寂しそうに。
僕のせいで。
僕が悪い。 僕が、悪い……。

「ごめん」
「何が、ごめんなの?」
「ごめん」
「……」
「ご――ピュみゅ」

急に彼女が僕の両頬をつねった。
そのせいで、酷く間抜けな音が歯の間からこぼれた。

「……全く。
 何かありました〜って顔して。
 僕が全部悪いんだ〜って、全部僕のせいだ〜って――そんな暗い顔して。
 何で私がこんな顔をしてるか、わかる?」

こんな顔、つまり妙にたどたどしい笑顔。
そんな理由は分かりきっている。

「僕が昨日、君を傷つけた。 跳ね除けた。 遠ざけた。
 ――だから……!」
「違うわよ」
「……え?」
「どうしてだろうって思ったのよ。
 どうして、貴方は私を立ちいれようとしないんだろうって思ったのよ。
 どうして、私じゃダメなのかって思ったのよ……。
 貴方に跳ね除けられた事が、哀しかったんじゃないの。
 貴方をわかる――それが出来ない私が……私が哀しかったのよ」


僕は愚かだ。
愚かで、弱い。

僕は、僕は、僕は……! 僕は、彼女に何をしてきたんだろうか。

僕は何一つ変わっていない。
弱くて、臆病で、昔のままだ。

「変われたと思ってたんだ。
 でも、何一つ変わってないんだ。
 それが、恐くてたまらないんだ……」

僕は彼女の膝に泣き崩れた。
意識が混濁する。
頭がグチャグチャだ。

「僕は、比隆さんが僕より巧い事が悔しかったんじゃないんだ。
 ただ、僕は先生に――ユーグ先生に、褒められたかったんだ。
 認めて欲しかった。
 コンクールなんて、どうでもいいんだ。
 一度でも、褒められたかったんだ…だから…アグゥ…だか…グゥゥ」

歯が巧く噛み合わない。
僕は、泣きながらガタガタと震えている。

彼女は、僕の背中をさすり続けた。



僕は、あの夏から何も変わっていない。



ただ弱くて、だれかに必要として欲しくて――それだけで。

 

 



あの夏はまだ続いている。


深く、深く根を下ろして。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

6月になった。
毎日、少しずつ日差しが強くなる実感がある。
それと、湿気が多くなっていく実感もだ。
夏の訪れと、梅雨の訪れが近いのだろう。

コンクールには結局、比隆さんが推薦された。
それは、実力主義のユーグ先生にとっては当然のことだ。

彼女は特別だ。
弓の動き、弦の弾き。
それらの作業の全てがやたらと正確で丁寧。 しかも、優雅だ。
ただ、それらの動きが機械的かと言うと違う。
正確・優雅な中に秘められた熱、瞳に灯る激情――それらが確かに存在している。
聞くものを魅了し、同時に圧倒するのだ。
対極にある二つを一緒にやってのける。
だから、彼女は特別なんだ。

僕の演奏は丁寧で巧いと皆は言う。 熱が感じられなくて機械的だとも、だ。
皆、と言ってもユーグ先生と比隆さん、それと、幾人かのユーグ先生の生徒だ。
物事の感じ方、とりわけ芸術においては個人の感覚で多くの感じ方が生まれる。
ただ、極僅かな人数でも全員が口を揃えて同じ事を言えば大問題に違いない。

対極を同時行なう比隆さんに比べて、僕は一極、それも比隆さんには及ばない。
いくら僕が丁寧で正確でも、比隆さんの正確さにはほど遠いのだ。

その比隆さんだけど、最近よく家に遊びに来る。
別にそれ自体は構わないことだし、問題はない。
ただ、比隆さんが妙に家のもう一人の住人と、仲がよくなってしまった。
毎晩のように、あーでもない、こーでもないと女性特有の話に華を咲かせている。
僕は隅の方で新聞や雑誌を読んでいるだけだ。
暇だとか、話せなくて寂しいとかでは断じてない。
騒がしさから暫く遠ざかっていたせいか、少し違和感を感じるだけの話だ。

今日も、さも当然のように家に居座っている。

僕としては少し大きな買い物だった紺色の高級ソファー。
そこに身を沈め、素足をフローリングの上に投げ出して、鏡と睨み合っている。
それが比隆さんだけならまだしも、ソファーには二人座っていた。
何でも今日はリップの新色がいくつか出たので、どれが似合うか二人で試し合っているらしい。
リップをひいたり、落としたり……男には理解できない世界。

「ん? 君もしてみる?」

その様子をボーっと眺めていると、比隆さんがそんな事を言う。
冗談にもほどがある話だ。
薬用のリップクリームならまだしも、化粧というのはおかしい。

「貴方なら女顔だし、それほど違和感なさそうよね……」
「うんうん、君なら大丈夫」

比隆さんに影響されてか、最近は彼女も少し攻撃色が強くなってきている。
由々しき事態だ。

「勘弁してよ……」

ウンザリだ。

でも、こんなのも悪くないと思う。
少し騒がしくて、落ち着きが無い生活――数年前に戻ったような錯覚に陥る。
そんな錯覚すら、悪くないように思えるから不思議だ。

――ブゥンブゥン。

突然、木目の入ったテーブルに置いてあった、僕の携帯が震える。
音が出るのを嫌っていつもバイブにしてある。
僕はテーブルからヒョイと携帯を拾い上げると、ディスプレイに表示される番号を確認した。

「……誰だろう?」

そこには、見たことのない番号が表示されていた。
少し疑念を抱きつつ、通話ボタンへ親指をかける。
銀色のボタンが軽く沈む感触と、電子音。

「もしもし?」
「………やあ」

声を聞いた瞬間、ドキリと心音が跳ね上がったのが手にとるように分かった。
春に一度会って以来の声だ。
声の主は渚カヲル――彼に間違いなかった。

「カヲル君……かい?」
「……ああ、僕さ……」

僅かな期待を込めた言葉は、肯定という形で返された。
携帯を握る手の力が、自然と強くなっていくのが分かる。
ハッとする。
灰色の携帯が軋む感触を手に感じ、僕は慌てて手の力を緩めた。

「明日、会えるかい?」
「……随分、急な話だね」
「急? それは違うよ……。
 前に会った時に僕は君に言ったよ――『今度ゆっくり会えないか』とね。
 でも、それ以来、君からの連絡は一度もなかった……。
 避けられるのは構わないと思ってる。 ただ、話がしたいんだ……」

胸の奥から、沸々と何かが込み上げてくる。
これは罪悪感だ。

「明日、2時に駅前でいいかな?」
「待ってるよ……」

――ツーツーツー。
切られた電話から聞こえる音が妙に耳に残った。



「誰?」

携帯を再びテーブルに置いた僕に、比隆さんが声をかけた。
その声には少しだけの心配の色が見えた。
それも当然だろう。
僕の体は小刻みに震え、顔は青いのだから。
顔が青いのは、鏡で確認するまでも無くわかった。
どうしてか、背筋が寒い。

「大丈夫?」
「大丈夫なの?」

二人の心配する声が、まるで遠くからの声のようだ。
ガチガチと歯が音を刻んでいる。
恐い。
恐いんだ。

目の前にある木目のテーブルが、ウヨウヨと渦巻いて人の形を成す。
そこに現われたのはカヲル君だ。
笑っている、カヲル君だ。
横にある空のペットボトルの蓋が空き、中から煙が溢れて人の形を成す。
そこに現われたのはカヲル君だ。
笑っている、カヲル君だ。

「アグゥエェア………」

狂ったような声にもならない叫びが、僕の喉を突く。

「ちょっと! 大丈夫?」

肩を揺すられる。
頭が揺れ、瞳も揺れる。
そして、目の前のいくつかのカヲル君も揺れる。

恐い。
恐いよ。
僕が! この手で! 握りつぶした!
カヲル君が! また……また! 僕の目の前に来る…!

「ギャブフエゥ……!」



そこで、僕の意識は()け飛んだ。

 

 



「目、覚めた?」

目の前にいたのは比隆さんだった。
僕はどうやらベットに横になっているらしい。
僕を見下ろす比隆さんの髪が、顔に当たっている。

「僕は?」
「変な声上げて、そのままお寝んね」

僕は上半身だけ起こすと、辺りをキョロキョロと見渡した。

「君の彼女なら晩御飯買いにいったわよ。
 このままじゃ君が起きるまで、動かなそうだったからねぇ……。
 私が強引に買い物に行かせたのよ」
「そっか……」

そう言った途端に見る見る彼女の機嫌が悪くなっていく。
それは彼女の顔を見れば明らかだ。
目つきが段々と悪くなっている。

「『そっか』じゃないわよ。
 心配かけといて、そんな事しか言えないわけ?」
「ごめん……。 ありがとう。」

満足したのか、彼女はうって変わって落ち着きを取り戻した。

「全く、なっさけな〜い顔して」

暫くの間を置いて彼女が静かに言う。
台詞はからかいの言葉。
でも、声色は真剣みを帯びていた。

「酷い顔」

――『でも、そのひっどい顔が本当の顔……じゃないの?』
随分前の彼女の言葉が甦る。
あれ以来、彼女のあんな表情は見られなかった。
部屋の電気は点いていない。 仄かに部屋が薄暗い。
そのせいか、彼女の表情は読み取れない。

「………」
「………」

無言。
僕も彼女もだ。

「私が前に――コンクールの前に言った事、覚えてる?」

――ドクン。
心臓が握りつぶされたように、飛び上がった。

「……酷い顔の、話?」
「そう、その話」

彼女の顔がユックリと近付いてくるのが、暗がりでも理解できた。
彼女の瞳だけがボンヤリと見え、薄暗い中で彼女と僕の視線が交わる。

「私のパパはね、ネルフにいたの」
「え?」

一瞬、合わせた彼女の瞳が強く揺らいだ。
そこに何の感情が宿っているかはわからない。

「保安局第一課所属、比隆タカヤ二尉――それが私のパパ」

その言葉はどこか遠く、そして、とても近く聞こえた。
第一課――僕らの身辺警護。

「パパは死んだ――自衛隊だかに撃たれてね。
 君が殺したわけじゃない。 それでも、君は知るべきよ。
 君は屍の上で生きていることを。
 血に(まみ)れて生きていることを」

彼女の瞳に何が宿っているのか、それはわからない。
ただ、彼女が涙を流しているのは間違いなかった。

哀しみか、悔しさか――わからぬ涙を。


彼女は幸せなのだろうか?
――ふと、場にそぐわない、そんな事を考えた。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

比隆さんは晩御飯を食べることなく帰っていった。
遠慮を知らない彼女がだ。
やはり、僕にした話に少なからず原因があるんだろう。
僕は彼女の父親を知らない。
彼女の父親は、いつも僕を見ていた。
その彼女の父親は、最後の戦いで死んだ……。
それは、誰が悪い?
僕か? 戦自か? 父さんか?
――違う。

誰が悪いとか、悪くないとか――そういうことじゃない。

でも、僕が巧くやれなかった事は事実なんだ――!
紛れも無い、事実なんだ……。

「ふぅ……」

自然に出たため息。
それと、同時に、ふと窓を眺める。
レースのカーテンの隙間から、月が覗いていた。
隙間風がカーテンをヒラヒラと揺らしながら、部屋に入り込む。
夜の風が肌寒い。
その寒さのせいで、僕の隣で眠りについている彼女が身を捩った。
毛布を掛けなおしてやろうと、手をかけると彼女の手が僕のそれに重ねられた。

「起きてたの?」
「ん……」

彼女は薄目のままで、頷くと少し強めに手を握ってきた。
冷たい夜風が、そこだけ――繋がれた手だけでピタリと止む。

「ねぇ……比隆さんと何を話したの?」

その質問は困る。
どう言えばいい……。
また、女々しく泣き散らしてしまうのはゴメンだ。

「気になる?」
「……そうね、気になる」

どっちにしろ、と彼女は言葉を続ける。

「貴方って失礼よね?」
「失礼?」
「忘れたの?」
「何を?」

彼女の顔が薄い笑顔に変わっていく。
まるで悪戯が成功した子供のようにだ。

「第壱中学校2年30番、比隆ミカ」

聞き慣れた名前と、久しぶりに聞いた名前。

「……そっか、同じクラスだったのか」

僕は苦もなくその事実を受け入れる。
よくよく考えれば当たり前だ。
比隆さんの父親は、ネルフ関係者。 そして、比隆さんは僕と同じ歳だ。

「ちなみに31番は私よ?」

僕は何番だっただろう?
覚えていない。 覚えている筈もない。 そんなことは、忘れてしまった。
――幾つかの事と一緒に、全て。

 

 



水のつぶてが肌に突き刺さる。
空は激しい雨模様だ。
カヲル君と約束した駅前まで続く道は、黒く濡れ、水溜りが点在している。
僕の持つ傘では、相変わらず耳につく雨音が鳴り止まない。

まだ約束の時間までは、幾分か余裕がある。
それで、ゆっくりと僕は歩いている。
いや、少しでも彼と会う時間を遅らせたいのが本音かもしれない。
あさましいな、僕は。

徐々にリニアのレールが見えてくる。
その先には、ホームだ。
塗り替えられたばかりの真っ白な建物が目に眩しい。
軽く辺りを見渡し、彼の姿を探す。
この天気のせいか、人の姿はあまりない。
――それが好都合か不都合なのかは別として。

彼は静かに電柱にもたれ掛かっていた。
青色のビニール傘を通して、銀色の髪と極端に白い肌が見える。

「ウッ……」

傘を持つ僕の手が震えている。
胸が苦しみを覚え、胃散が込み上げ、頭がフラフラする。
まただ。
また、僕は……!
苦痛と罪悪感、それと頭の端に引っかかるような異物感。
――その全てが僕を覆った。

ガクリと僕の膝が地面につく。
雨に濡れたアスファルトから、冷たい感触が膝へと流れ込んできた。
同時に地面へとついた右手からは、傘がこぼれ落ち、体が雨に包まれる。
ジワジワと体が冷たくなり、それに反比例する様に頭はカァーっと熱くなっていく。

こうしていれば、意識が途絶えるのは間違いない。

「ッ……ン…」

混濁する意識の中、僕の瞳には手が映った。
誰かの、手。
僕は、無意識に、その手へと、右手を、伸ばして、手と、手を、合わせた。

 

 



「カヲル……君」
「どうしたんだい? こんな道端で」

掴んだ手は、カヲル君の右手だった。
――繋がれた手だけが雨の中で暖かい。
今、僕の瞳に映るのは彼の笑顔だった。

「立てるかい?」

彼は僕の体を起こすと、近くのベンチへと腰を下ろした。

「この酷い雨の中で、傘はどうしたんだい?」

相変わらず僕の耳には雨音が響いている。

「傘は壊れたんだ」
「でも、雨に濡れるのもたまにはいいと思わないかい?」
「え?」
「実は、君が倒れそうになっているのを見て、慌てて傘を放り投げてきてしまってね。
 僕も傘がないのさ」
「じゃあ、このまま」
「そうだね、このまま」

僕は、初めて彼の顔を真っ直ぐに見ながら話した。
久しぶりにちゃんと見た彼の瞳はきれいだった。

「ねぇ……カヲル君」
「なんだい?」

「僕は君を殺したんだ」
「知ってるよ」


「だから、謝ろうと思うんだ」
「うん」



「状況が、誰かが、運命が、そうさせたのかもしれない。
 でも、僕が君を殺したのは事実なんだ。
 だから……だから、ごめん……ごめん……」


暫くの沈黙の後に、彼が笑いながら言葉を発した。


「君は今、何をしているんだい?」
「え? うん。 楽器を――チェロを弾いているんだ」


「いつか、いや、近いうちに君のチェロを聴かせてくれないかい?」



「うん、約束、するよ」



彼の笑顔が眩しかった。

彼の言葉が嬉しかった。


――僕の頬の涙の流れが、暖かかった。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

梅雨が過ぎ、陽射しがきつくなる日々が続いている。
目に映る木々も緑を濃くしていた。
模様替えされて、水色になったカーテンも熱気のこもった風に煽られている。

毎日のユーグ先生の指導が日増しに厳しさを増している。
理由はわかってる。
二週間後――8月上旬のコンクール。

その厳しい指導のせいで、今日も帰りが遅くなってしまった。
彼女の膨れ顔が目に浮かぶ。

「ただいま」
「おかえり。 晩御飯、すぐ食べるでしょう?」
「うん」

食卓にはいつもと同じ様に和食が並べられていた。
白米、みそ汁、鳥の唐揚げにほうれん草のおひたしだ。

「最近、随分と練習熱心なようだけど、一体どうしたの?」

鳥の唐揚げを口に放り込みながら、彼女がそんなことを言う。
僕の口の中にはほうれん草のおひたし。

「コンクールに出たいからね……練習にも熱が入るよ」
「………それは、どうして?」
「どうして、出たいか? ってこと?」
「ええ」

彼女の顔が少し真剣になった。
その理由には心当たりがたくさんあるだけに、少し罪悪感が湧く。

「僕の演奏を、聴かせたい人がいるんだ――それも、2人」
「2人?」
「1人はカヲル君、そして、もう1人は君に」

彼女は微笑み、僕も微笑んだ。

 

 

 

+++++++++++++++++

 

 

 

あの夏は僕へと根を下ろしていた

深く 深く 根を

打ち込まれた 種は 暗く 深く



知っているかい?

植物の種は芽が出て 大地へと顔を出すのだと


知っているかい?

それは 生きるために 光を求めているのだと



あの夏は僕から芽吹く

夢か 希望か 明日か 未来か


ただ まっすぐに



光をもとめて

 

 

 

 

 

―――静かに、夏の始まりが告げられた―――

 

 

 

 

 

end.

 

 

 

 

 


<やる気のない後書き>

ちなみに、『比隆』はアスカ嬢の名前のモトネタ『航空母艦 蒼龍』の同型艦『飛龍』から拝借。
構成とかに穴がありまくりで展開が不自然?
気にしないのが幸せの秘訣。秘穴ってエロくねぇ?<死んでしまえ


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