「 生と死は等価値なんだ

――言い得て妙だよな、この言葉は

真実かは別として 」

 

 

 

―――穏やかに、秋の終わりが訪れる―――

 

 

 

HANATABA the second

スノードロップ

written by HIDEI

 

 

 

 寒い。
 雪が降らないだけまだマシなのかとは思うが、寒いものは寒い。
 季節が戻って良かった事なんて僅かだ。悪かった事なら幾らでも挙げられる。冬は寒いし、春は生温い。 だからと言って、夏が涼しくなったかと言うと疑わしい。春との気温差で余計に暑く感じる。
 何が1番酷いかって、今。つまり、冬と夏の切れ目――春以上に中途半端なオータムというやつが最悪だ。
 勉学だったり恋だったり芸術だったりと世間では言うらしいが、俺に言わせりゃ何もない。
 そう、なーんにも無い。
 勉強は元々好きじゃないし、恋は『恋愛』の『れ』の字も何もあったもんじゃない。
 芸術についても今は何かをする気にはならない。
 だってのに……どうして、こう。その、何なんだ、この2人は。
「トウジ。お前等な、いちゃつくのを是が非でも止めてくれ」
 言ってやった。
「ん? 何や?」
 意識していないのが1番タチが悪い、とは誰の言葉だったか。
 何となくその意味を噛み締める。
「だからだな、俺の目の前で洞木とヘラヘラいちゃつくのをだな、出来れば止めて頂きたい」
「ワイやのーて、こいつに言うてくれ」
 見ると、俺の言葉を左耳から右耳にダイレクトパスして、あまつさえそのまま放り出しながら、洞木が微笑んでいた。
 本当に聞こえてないから余計タチが悪い。
 その手はトウジの腰と肩に回されて、体を支えている。
「もう1人で大丈夫や言うてんのに、なかなか聞かんでな」
「何だかんだ言って、にやけてるお前に言われてもな」
 トウジは面白くなさそうな顔で、見合わせていた顔をそらし、空を見上げた。
 空は青い。

 

 いつまでたっても真新しい真っ白な建物。色褪せない壁は、無駄に高級素材だからか、毎日の手入れが行き届いているからか。 その真偽は定かではない。定かにするつもりも起きない。どっちにしろ市民の血税の結晶だしな。
 箱型の建物の側面、丁度その真ん中に入り口がある。病院としては定番の構造だろう。
 自動ドアをくぐり、受付に挨拶を済まし、廊下を歩く。流れるような動作。自分が慣れている事を自覚する。
 慣れるのも当然か。
 何せ、週に最低5度。多いときは毎日通ってる。どんなラストダンジョンも真っ青の驚異的なエンカウント率だ。
 受付と同じ1階にありながら、くそ長い廊下のせいでそこまでタップリ10分はかかる。
 1階の端っこの病室の前で、俺達の目に映りこむ023号室のプレート。
 毎度見るたびに思う。何という皮肉だろう、と。
「おう、今日も来たで」
 気軽な挨拶は弱々しい声で返される。
「……うん、おはようトウジ。ケンスケも、委員長も……」
 今にも――それこそ、風が当たっただけで、空気が触れただけで、たったそれだけで折れそうな華奢な体。 少し色素が抜け落ち、白髪の増えた頭。白い病院着から覗く胸板にはアバラが浮き出ている。
 不健康とかそういうレベルの話じゃないよな、もう。
 横のベットを見ると、そこには眠りこける病人がもう1人いる。
「碇君、その……どうなの?」
 洞木がそちらに視線を寄せながら、今にもポッキリ体が胴から真っ二つに折れちまいそうな――そんな碇に質問を飛ばした。
「まだ……ダメみたいなんだ」
 まるで、自分が悪いかのような立ち振る舞いは相変わらず。それどころか、腰が更に低くなったきらいがある。 謙虚どころの騒ぎじゃない。まるっきし、病気だ。まぁ、実際病人なんだが。
 まだダメ、なのは隣のベットの惣流だけじゃなくてお前もだろ。そう言い掛けて、その言葉を飲み込む。

 年齢的記憶的な退行現象。一言でいえば惣流はそんな病気らしい。 ハッキリとした病名は心因性及び身体的外傷によるなんとか併合のなんとか症。ハッキリなんてこんなもんだ。
 1日のうち寝ているほうが多いくらいで、日に何度か起きてはママーと泣き叫ぶ。 まるで他の言葉を忘れたようにママー、とだけ。たった1つの言葉が惣流自身の世界の全てであるように、他には何も言わない。
 寝て、起きて、『ママ』を求めるだけ。
 原因は不明とかお医者先生は仰ってらっしゃる。 俺、いや、俺達に言わせれば原因なんて山ほど考えられる。エヴァにネルフに使徒にサードインパクトに……。
 一方の碇は、こちらも心因性の精神疾患らしい。普段話す分には問題ない軽いもんだが、なかなかに根は深いという矛盾したもんだ。 その上、内臓が不自然なくらい傷ついている。心肺機能から消化機能までズタズタのボロボロ。だから、こいつはこんなに痩せてる。 こっちの原因も惣流とそう変わらないに違いない。
 どっちにしろ、こいつらはもうダメなんじゃないかって思う。
 別に早く死んで欲しいわけじゃない。長生きに越したことはないし、こいつらは元クラスメイトで友達だ。 死なれて気持ちいいわけはないんだ。それでも、こいつらが来年も来月も、それどころか明日でさえ、また会える気がしない。 毎日毎日こいつらの顔を見るたびに、もう2度と会えないんじゃないかって思う。
 多分、生きているのに死んでいるんじゃないだろうか。推測だけど。

「ママー」
 今日も惣流が目を覚ます。
「ママー! ママー!」
 うるさいよな、正直。仕方ないんだが。
 惣流が目を覚ましたら、泣き疲れるか叫び疲れるかを待つしかない。
 つまり、暫くはこのままだ。
「ママー! ママー! ママー! ママー!」
 目に涙が浮かび始める。声も涙声だ。泣いて叫んで――退行の事実を実感する。
「アスカ……」
 洞木がなだめようと手を伸ばすが、結果は分かってる。これも毎日の繰り返しの賜物だ。
「ママー!」
 洞木の手なんか構っちゃいない。払いのけもせず、甘受もせず、ただ叫び続けるだけ。
 見えちゃいないのだ、何も。『ママ』以外は。
 『ママ』だけが惣流の世界。滑稽でもあり、哀しくもある――閉じた世界。

 暫く惣流の泣け叫ぶ様を見た後、俺はその場の空気に絶えられなくなって病室を出る。
 トイレに行く、なんてヘタな言い訳だとは思うが仕方が無い。
 本当に行く必要はないのに、トイレへと足を向け――ようとして、再び目に入るそれ。

 023号室のプレート。

 1が抜けて、2と3が隣り合って、その後に続く数字はなくて――どんな皮肉だ。

 

 世界は概ね平和だ。
 国際裁判で死刑になるような連中にプライバシーの権利はないようで、真実は割と簡単に明るみになった。
 情報公開制が誕生以来最も有効活用されたんじゃないだろうか。
 ゼーレとか言う分けのわからん団体がアホなことしようとして、色々暗躍してた――要約するとこんなもん。
 笑える事実だが、碇も惣流も俺もトウジも洞木も、それこそ俺達のクラスは全部その暗躍の一部だったらしい。
 セカンドインパクトの時はそりゃ大変だったらしいが、サードインパクトというやつは大したことは無かった。 何も変わっていない、と言えば少し語弊があるかもしれないが、変わったことといえば季節が戻ったくらいだ。
 大していいことなんてないが、悪すぎるわけでもない。婆ちゃんなんかは雪が見れるって泣いてたが俺には関係ない。
 他に何が変わったか、と聞かれれば人口が減ったことだろうか。
 どういう構造になってるかは知らないが、今の海は真っ赤だ。そこから俺達は帰ってきたらしいが覚えちゃいない。 帰ってくる人がいれば帰ってこない人もいるわけで、その分人口は減った。
 何でこんな事になったのか、碇に聞けば何か分かるかもしれない。けど、今の碇にそれを聞くのは酷ってもんだろう。

 綾波は戻って来なかった。
 葛城さんや碇の親父さんも戻ってきていない。

 ――綾波は、違う場所に行ったんだよ……。

 碇はそう薄く笑った。その時以来、その話はしていない。

 

 そろそろ、トイレで雲見ながらどうでもいいこと考えて時間を潰すのにも飽きた。 というよりか、いい加減に戻らなきゃトウジ達に置いてかれる。洞木はその方がいいかも知れないが。 この後、特に予定のない俺にとっては死活問題だ。
 週末だってのに浮いた話の1つもなく、カップルにくっついて回るってのは滑稽なことこの上ない。
 溜め息を吐きながら、出すものも出していないのに、手を適当に洗って外に出る。
 薄いクリーム色の床に踵を打ちつけながら歩き、023号室を目指す。
 その道中フッと芳しい香りが鼻をつく。振り返ると、そこには神妙な面持ちでこちらを見つめる女性がいた。
「相田君ね?」
「え? あ、はい」
 まさか話し掛けられるとは思っておらず、声が僅かに裏返る。
 鮮やかに染められた金髪と、白衣。どこかで見た気がするが、思い出せない。
 白衣を着てるんだから、おそらく病院の人だろう。
 だったら何度かすれ違ったことくらいあるだろうし、いつももここを訪れる俺達はある意味で有名人だ。こっちが知らなくても あっちが勝手に知っている可能性もある。
「少し、いいかしら?」
 自由意志ということらしいが、威圧感のある瞳は勝手に俺の首を縦に揺らす。

 案内された部屋は、何か異様だ。病院の中にあるのに、病院とは違う空気を感じる。 ただ、消毒液の臭いだけは変わらない。それだけが、辛うじて病院にいるんだという事を認識させてくれる。
 ギシリと軋むイスに腰を下ろし、言葉を待つ。
 自分から誘っておいて一言も発しない、というのは日本人として失礼な部類ではなかろうか。 いや、金髪なのだから、もしやハーフか? それにしたって郷に入ればなんとかっていう言葉もあるくらいだ。
「タバコいいかしら?」
「はぁ……どうぞ」
 マナーは分かってるらしい。
 紫煙が舞い上がり、消えていく。
「私の名前……は、覚えてなさそうね」
「すみません」
 知り合いのようだった。
「赤木、リツコよ」
 会ったことがあるかもしれない。いつあったのか、とかは覚えてないが。
「一応シンジ君の書類上の保護者ということになっているわ」
 そういえば、紹介された気がする。それと、何度か病室でも会った……気がする。
 失礼なのは俺だ。正直、あんまり思い出せない。
「あの、赤木さん。話って?」
 俺を置いてとっとと帰るほどトウジ達は冷たくない筈なので、早めに切り上げたい。
 あいつらを長く待たせるのは忍びない。それ以上に、長いこと2人きりにしてイチャイチャされるのが癪だ。
「そう……ね。あなた、最近のシンジ君どう思う?」
「どうって……別に相変わらずだと思いますけど」
 そういう事は主治医に聞くべきだと思います――とは言わなかった。そういう事を聞かれてるわけではないだろう。
 勿論、求めていた答えが返せたかは自信ない。
「変わらず――そう。ごめんなさい、時間をとらせたわ」
 そう言いながら退出を促される。
 少々拍子抜けだが、俺は巧いことポイントをつけたらしい。

 

 病院の目の前の庭で待っていたトウジ達と合流し、帰路につく。
 ふと、気がつく。2人はどうも辛気臭い顔をしている。
 トウジに似つかわしくない能面のような顔。そして、そんなトウジに何か含むものがある洞木、と言った所か。
 気まずく重い空気だ。それに応えるように空まで曇ってきた。
 仕方が無い、と口の中で呟き、
「なぁ、お前等はどうするんだ?」
 場の空気を戻すべく疑問を口にする。
「なにがや?」
 予想外に普通の反応が返ってきたことに安堵する。辛気臭い顔はこいつに似合わない。
 洞木は来た時と同じ様にトウジを支えながら、声には出さず目で『何が?』と返す。
「ん。卒業したらだよ」
「随分、気が早い話やな。まだ11月やぞ?」
「馬鹿言うなよ。明日、進路希望の提出日だぞ?」
 眉根を寄せるトウジと、それを見て溜め息を吐く洞木。
 どうせ、そんなこったろうと思ってたが、案の定忘れていたらしい。
「全く……本当に何も考えてないのね」
「洞木、無駄だ。コイツは将来よりも今晩の献立が大事な男だ」
「それもそうね」
 あっさり納得すると、また溜め息を吐く。
 一方のトウジは、と言うと、
「勝手なこと抜かすなや」
 ご立腹のご様子で。
「じゃあ将来のヴィジョンがあるのか?」
「献立よりも味が大事や」
 今度は洞木と一緒に溜め息。
「相田君はどうなの?」
「俺? 俺は進学だな。普通に」
 普通にの部分をトウジに向けて殊更に強調する。
「私も進学ね。出来れば近場の短大」
「へー。でも、別に洞木の頭なら国立でも何でも入れるだろ?」
 俺の根性もいい具合に曲がってる。聞かなくてもその理由は分かってるのに敢えて聞く。
 近場には国立やら私立のレベルの高い学校はない。要はあれだ、トウジの頭じゃそこらには入れないし、洞木が入ると 遠く離れることになるわけだ。
 おーおー顔染めちゃって。
「最近じゃサッパリ動じなかったのにな、軽いもんだ」
 その反応に気をよくした俺は、嫌な感じの笑みを浮かべる。
「もう……」
 困ったような照れたような表情の洞木とはうって変わって、トウジの反応は薄い。
「そうや、何でもっと頭ええとこ行かんのや?」
 それ以前に、こいつは何も分かっていない。
 そんなトウジの足の甲が、洞木の踵の餌食となった。骨が軋み、皮が抉れ、肉が悲鳴をあげる。
 強烈すぎる一撃。有り得ない。あんなの喰らったら折れるだろ。
「いたっ! 何や急に!」
 流石に踏まれ慣れているだけあって、いたっ!程度らしい。
 慣れてるのも考えもんだが……。
「今日の晩御飯は抜きね」
「なっ」
 トウジは足の甲を踏み潰されたときより痛そうな顔をする。今さらだが、こいつは馬鹿だ。間違いない。
 折れるくらいに踏まれるより、晩御飯を抜きにされた方が――ん?
 洞木がトウジの晩飯を抜く?
「何で、洞木が鈴原家の食卓を我が物としてるんだ? アレか? 俺に黙っていつのまにか同棲か?」
 けしからん。
「あのね……」
 急な頭痛でも感じたように、洞木が顔をしかめた。
 分かっていた事だが、それは無いようだ。こいつらに、そんな度胸はない。
「あーあー、分かってるって。高校生の分際で、もう通い妻ライクに毎日飯作ってーの、毎日風呂で背中流しあったりしーの、 毎日ベットでアレしてコレしてピーしーの、なんだろ?」
 俺はひがみ野郎か?
 いや、断じて違う。
 これは正当な意見だ。
「なんや、ひがみか? 根性ババ色やのう」
 カチン、と頭の中で鐘が鳴り響いた。
 ついでに、ムカッと頬の辺りで音がして、プチっと切断音も続いた。
「ほう、通い妻ライクな部分については否定はしないんだな」
 言ってやった。
 そして、後悔した。
「痛っ!」
 洞木の踵が俺の足にめり込んでいた。
 涙が出てきた。

 

 家に帰っても待っているのはボロッちい布団と、万年1人しか乗っかった事のないベットだ。 ついでに言うと炊飯器には3日前の飯が入っている。開ける気にはならない。
 だからというか、当然というべきか、2人と分かれた後に俺は帰る気にもなれず、ぶらついていた。
 夜道を歩きながら考えるのは、大概バカらしい事か真面目くさった事のどちらかだ。
「様子は変わらず――か」
 俺の思考はバカらしくもあり、生真面目でもある。
 どうせ答えは永久に出ないのだから、この思考に意味はない。バカらしさもここに極まれり、だ。
 ――どうしてあんな事を聞かれたか、どうして俺に聞いたか、赤木さんは何が言いたかったのか。
 フンと鼻を鳴らして笑う。
 俺に何かを求めるのは間違いだ。滑稽なくらいに俺は碇に何もしてやれない。
 笑い話なんだよな、所詮。皮肉な笑いでも滑稽な笑いでも嘲りの笑いでも、笑いは笑いなんだよ。
「どうせ、俺は傍観者だ」
 自己に嘲笑した。

 何だってそうだ。
 俺は傍観者でしかなかった。それが悔しいと思う事はあっても、それが当然だと思う事なんかない。
 だからエヴァに乗りたいと思った。敵が欲しかった。褒められ讃えられ好かれ羨望されたかった。
 欲に塗れた英雄への願望と衝動と疼きが根付いていた。
 だが、それの何が悪い。人間はそんなもんだ。
 誰かのために?
 そんな舞い上がったセリフはクソ喰らえだ。
「結局、自分が幸せになりたいだけなんだよ……」
 誰かに何かをしたいってのは、とどのつまり、そうすれば自分が気持ちいいからで、結局は自分のためだ。
 悪くない。それが人だ。
 自分が一番で、他人は二の次。それでいい。
 自分のことで精一杯。他人まで手が回らない。それでいい。
 自分が好き。そんな自分を好きな他人が好き。それでいい。
 左の頬を叩かれたら右の頬を差し出さずに、相手をグーで殴る。それでいい。
 気に入らないやつを殴る。そいつを嫌いな他人が好き。それでいい。
 したいと叫ぶ。それを認めてくれる他人が好き。それでいい。
 媚びる。それに応じる他人を利用する。それでいい。
 いいんだよ。いいんだ。いいに決まっている。間違ってなんかいない。正当だ。確実だ。絶対に間違っていない。あっている。 正当だ。確実だ。いいに決まっている。間違ってなんかいない。絶対に間違っていない。あっている。 間違ってなんかいない。確実だ。いいに決まっている。正当だ。あっている。絶対に間違っていない。いいんだ!いいんだよ!
 いいんだ――!
「クソ!」
 道端の自販機を蹴り飛ばす。鈍い痛みが足に広がる。
 ――俺は何故、こんなにイラついてやがる。
 自販機がゴトリと缶を吐き出す。
 出てきたコーラの炭酸に喉を焼かれながら、星を見上げる。
 雲の奥で浮かんでは消え、消えては瞬く無数の星。
 ちっぽけな俺。
「帰るか……」
 アホらしくなって、帰路につく。
 コーラは吐き出した。

 

 3週間ぶりだろうか。学校が終わって、今日は1人で病院に向かう。
 あいつらは委員会で遅れる。トウジが真面目に出席しているという事実を、俺はどう受け止めるべきか。
「尻に敷かれてるだけか」
 自問自答の自己回答に満足し、今日も受付へ歩みよる。
 いつものコースをそのまま辿り、023号室へと踏み入った。
 何一つ変わりない、存在自体が頼りなさげな碇を見た次の瞬間、

 俺は碇をブン殴っていた。

「ケンスケ……」
 痛みを痛みとも認識していない、いや、出来ていない声で碇は言葉を発した。それは囁きに近かった。
 赤い染みが数滴ついた病院着の襟を片手で掴み、グィっと碇の顔を近づける。
 その瞳には怒りも、憤りも、悲しみも、存在しない。
 あるのは俺への、いや、自分以外の他人に対する――怯えだ。
「悪かったな……」
 碇と同じ様な消え入りそうな声で告げ、逃げるように部屋を出た。

 トイレへ駆け込み、荒れた息を整える。収まらない喘ぎが耳に残って鬱陶しい。
 青いタイルが敷き詰められた壁によしかかり、目をつむる。余計に喘ぎが大きくなる。
「俺は、バカか!」
 拳を壁に打ちつける。
 自分の感情すらコントロールできないなんて、まるっきしガキだ。
 病人に、しかも瀕死みたいなやつに殴りかかるなんて人として最悪だ。 あいつを殴ったって、何も変わりゃしないのは目に見えて分かってた筈だってのに――!
 それでも。
 それでも、熱くなる頭のほんの隅っこの冷静な部分が、あいつを殴った瞬間に言ったんだ。
 ――殴らなきゃダメだろ!って。

 

 2週間とちょっと前――妙にイラついていた日の2日後くらいだろうか、トウジ達とあの話をしたのは。
 きっかけは、アホみたいにちょっとした事だった。

「なあ、結局のところ進路希望は何て書いたんだ?」
 返答はない。
 その視線は窓の外に向かっているというより、窓を通して俺の顔とその奥を覗き込んでいるようだ。
 随分と、黄昏気分らしい。
「聞いてるのか?」
 辛気臭い顔は止めて欲しい。こっちまで陰鬱になってくる。
 そういえば、一昨日からこいつはこんな顔をしていることが多い。
 何だってんだ。
「おい、あんまり辛気臭い顔してんなよ。お前まで病気になっちまうぞ」
 病は気から。そのうち精神患うぞ。
「まで、やと?」
「――痛っ」
 突然胸倉を掴まれ、引っ張られる。教室の外まで一気に一名様ご案内。
 トウジの顔は険しい。怒ってると言うか憤っている感じだ。

 廊下を左に真っ直ぐ行った所――1階の端っこの使われていない教室へと連れて来られる。
 俺が自主的に足を動かしたので、既に手は胸倉から離れていた。
 西日が射す机とイス。その中の1つに腰掛け、トウジの言葉を待つ。
 暫く沈黙が続き、秒針が10回転ほどした時にやっとその沈黙は破られる。
「トウジ、一体何だよ? 俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
 耐えられなくなった俺が逆に質問してやる。
 待っていたのは、またしても沈黙。
 今度は3回転ほどで破られる。
「なぁ、ケンスケ……ワイらは一体何なんやろな?」
「何だ、その哲学的質問は。そういう質問はパスカルかソクラテスに聞け」
「マジメな話や」
 トウジの目が細められる。西日が眩しかっただけかもしれないが、少なくともトウジの顔は深刻だ。
「一昨日、随分とトイレが長かったやないか……あの時、何しとったんや?」
「赤木さん――碇の保護者と話したよ」
 別に隠す事でもないので、躊躇なく答える。
 その答えに満足したのか、トウジはそのことに触れず話し始める。
「ワイらも碇の保護者――伊吹っちゅー人と話したんや」
「そら、知らなかったな。で?」
「碇に何か変わったことはないか、言うてな」
 同じだ。
 でも、確信している。
 質問はイコールでも、俺とトウジの答えはイコールじゃない。絶対にだ。
「何て答えたんだ?」
「酷くなってる、答えたわ」
 ほらな。
「俺は、変わりないって答えたぜ?」
 暗に俺も同じ質問をされたことを告げる。
 この際、トウジがそれに気付くかどうかは問題じゃない。
「それでな、聞いたんや……碇は、もう長くないっちゅうことを」
「何だ、そんなことか」
 逆鱗に触れた、と思う。
 少なくともその自覚はあった。でも、自分自信がそう思っているのだから仕方がない。
「そんな事、やと?」
 怒っているのが手にとるように分かる。
「まてよ」
 だから、殴られる前に出鼻を挫く形で待ったをかける。
「お前は分かってない。あいつが――碇が長くないのは、体がどうのこうの以前の問題なんだよ……」
「ど……どういう意味や?」
「あいつの腹ん中が、どうしてあんなに不自然にボロボロだと思う? あれは病気なんかじゃない。 あれは……あれは――あいつが自分でやったんだ」
 俺の言ったことが整理できないのか、整理できても認められないのか、トウジは何も言わない。
 ここで止めるべきかもしれない。でも、止めない。
 俺は言う。言わなきゃダメだ。
「自分から走ってる車に当たりにいったんだとよ」
 時速80キロで走る鋼の塊だ。正面からブチ当たって生きてるほうが不思議だ。
 トウジは黙ったままこちらを見据えている。
「死にたがってるんだよ……あいつは。もう、この世界に興味がないんだよ……もう、ダメなんだ……」
 搾り出すような声。
 情けないことに、俺の足と体は震えている。歯も巧く噛み合っていない。
「……だから、だから――放っておけ言うんか?」
 トウジの声もいつもの声量からは考えられないほどに、か細い。
 その体は力が満ち溢れているどころか、限りなく弱々しい。
「それ以外に、どうすれってんだよ。止めるのか? あいつを」
 頬に灼熱感が走る。
 殴られた、と気付いたのは哀しそうなトウジの顔を見たときだ。
「スマン……」
 信じられない程消え入りそうな声で告げ、トウジは逃げるように教室を出ていった。

 

 廊下を歩く。
 女々しく後悔すんのは止めた。
 ガキくさいのもアホなのも重々承知。それでも、放ってなんておけるか。
 死んでもいいわけないだろ――そう言ってる自分を押し込めろって言うのかよ。
 俺は、俺は――。

 荒々しくドアを開け、見据える。
「おい、碇」
 トリガラみたいな首がこちらに捻られる。西日を後ろから浴びながら、碇がこちらを見た。
 驚くほどの無表情。まるで、昔の綾波だ。
 怯む。
 それでも、言う。
「お前は、どうしたいんだ?」
 怯む。
 それでも、止めない。
「自分の命をどうにかする自由すら無かったんだろ? だから、最後くらい――死ぬときくらい自分で決めようとしたんじゃないのか? 生まれは選べなくても、死を選ぶのは自由にさせろ!って思ったんじゃないのか? 違うのか……そうじゃ、ないのか?」
 怯む。
 それでも、止めてなんかやらない。
「碇! 答えろよ、碇!」
 沈黙。
 灼熱の鉛のように重くドロドロとした沈黙。
「もう……れ…た…だよ」
 ハッキリと聞き取れない。
 碇の声が耳に届く位置まで自分で動く。気付けば碇の目の前だ。
「もう、疲れたんだよ……。もう、意味なんかないんだ……怖いだけで、何もない……からっぽなんだ……」
「本当に何もないのかよ……本当に」
「ないよ」
 その顔はあまりにも自嘲的で自虐的で、やっぱり碇だった。碇だと思った。
 だから、やっぱりダメなんだと思った。
 それでも、『やっぱりダメ』なんてダメだって思う俺は相変わらず存在していて。
 だって……悲しすぎるじゃないか。
 唯一の、最後の、やっと手に入れた自由が死ぬために使われるなんて、ダメじゃねえか。全然、ダメじゃねえか。
 そらしていた視線を戻すと、碇はもう俺を見ていなかった。
 俺も見ていないし、何も見ちゃいない。うつろで危うい。

 その瞳が、揺れた。

 声で揺れた。
 声はすぐ近くからだ。

「シンジ……」

 他愛のない寝言。
 それでも、それは初めての言葉だ。
 ママしか知らない『惣流』の、退行してしまった彼女の、ママだけを求めていた彼女の。

 なんだよ、くそ、格好わりぃ……前が見えない。
 ああ、こんなに簡単に泣けるもんか。
 涙腺の強い弱いじゃない、出るもんは出る。
 目の前が霞む。それでも分かることが1つ。

「何だ、碇……お前もかよ」

 その泣き顔は情けない。
 俺もだけど。

 

 


 起きて顔を洗って飯を食ってクソして髪を整えて、全部終わったら最後にタンスの奥からそいつを取り出す。
 デジタルなんて無粋な文字は入らないし、安っちいインスタントの文字も入らない超高級品。
 僅かに付着した埃をフッと息を吹きかけて落とす。レンズを磨いて完了だ。

 外に出ると、相変わらず寒い。
 12月に入ろうか、というこの時期。
 初冬か秋の終わりか迷うところだ。
 だが、ここでは秋の終わりを主張したいと思う。
 何故って?
 そりゃ、アレだ。

 芸術の秋はこれからだからだ。

 ――5人で記念に1枚、そんなことを碇が言い出したから。

 

 

 

―――穏やかに、遅まきの秋が始まった―――

 

 

 

fine.

 

 


<やる気のない後書き>
今回はかなり分かり辛い話になっちゃったなーと反省してます。
地の文の軽いノリのおかげで、話し自体が重くならなかったのは僥倖。元々あんま重くないけど。
毎度のことながら構成に穴があって展開が不自然?
気にしないのが長寿の秘密。秘蜜ってエロくねぇ?<死ぬがいい

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