踏みしめる。
大地を踏みしめ走る。予想以上に軽い体をギリギリまで駆動させ、ただ駆ける。音も色も感じず、感じるのは焼けるような
痛みと敵意。目の前に存在する使徒という怪異への圧倒的な敵意だけだ。
色あせ、爛れた装甲が風ににさらわれて体から剥がれ行く。既にひび割れ半壊していたそれは完全に砕けた。
気にせず走る。
装甲のあった場所が冷たい。煩いくらいにそこから感じた痛みも、焼けるような血の熱さごと消えた。
分かっている。傷が塞がったんじゃない。ただ、僕が麻痺しているだけだ。
例え、分かっていても走る。まだ意識はハッキリしている。だから、まだ走る。終わるわけにも止めるわけにも死ぬわけにもいか
ない――熱く滾る敵意を傷の冷たさが適度に冷ますような、そんな不思議な感覚が僕を支配する。
スピードを保ったまま飛び跳ね、痛みと疲労で反応の遅れる体を無理やりに引き伸ばし、蹴りの体勢を作る。周囲の空気が巻きつき、
伸ばされたつま先がサキエルをとらえた。僅かに傾いだその体にありったけの力を込めて拳を叩き込む。自分の骨が軋む感触と、
露ほどにも動じないサキエル。
効いてない――!
瞬時の判断で、後ろに飛び退く。目に映る01の拳は骨が飛び出、肉が潰れ、拳自体がひしゃげていた。
武器はもうない。
プログナイフは折られ、パレットガンは弾が尽き、拳は潰れた。
残った武器は――命。そして、燃える敵意。
それは最後の武器で、最悪の選択で、最高に愚かで、約束を破ってしまって。だから、やっぱり間違っていて。
そして、何より怖くて。
強引に遮断していた通信回線を、意識で繋ぐ。
「退却します」
これは、退く勇気と言うんだろうか。
怖さと弱さにまみれた退却を、勇気と言うんだろうか。
「勇気よ」
傷の手当を終えた僕を待っていたのはお説教と、答えだった。
「その勇気をもっと早く発揮していれば、私達の血圧も上がらずに済んだのに」
赤木さんが大仰な手振りと一緒にため息をつく。
「ともかく3日間は安静ね。大人しく反省していなさい」
僕を強引にベットに寝かせ、布団をしっかりとかけると、カツカツとヒールを鳴らしながら部屋を後にしていった。
耳にはいつまでも音の残滓と、赤木さんの答えがこびりついていた。
プログナイフで何とかサキエルの胸部にある顔を潰したまでは良かった。問題はその後だ。サキエルの腕から飛び出た光槍が、
01を――僕を抉った。刹那、僕の意識は搾取された肉と一緒に飛び散る。
痛みで目を醒ますと、サキエルがその傷をさらに突いていた。執拗に獰猛に、一点を突き続けていた。
這うように距離をとると、傷の熱さが敵意に火を灯し、傷の疼きが心を突いた。
思い出したように脇腹の傷に触れる。赤黒い傷跡が、その疼きの証明だった。
僕は負けてしまったんだ。
景色が淀み、頬が熱く濡れる。
訳も分からず泣いた。
12th story : door into headz -1/3-
暗い闇よりなお深い色を放つ01の紫色のボディを見上げる。欠けた装甲は補修され、膿んだ肉は完治し、瞳はボウと紅色の光を
放って瞬いていた。その形相はまさしく鬼だ。米兵たちがオーガと呼ぶのも無理はない。
顔を破壊してやったのが効いたらしく、サキエルは3日たった今もレイヤーの奥深くに身を潜めている。N2による
攻撃との損傷率の差からすると、あと4日は沈黙が予想されているらしい。20分ごとにレイヤーから這い出てくるのとは雲泥の差だ。
少しは貢献できたらしく、嬉しくもある。
「やっぱり、来ちゃったんだね」
思考を割るように暗がりから声が届く。どこかで聞いた覚えのある、間延びした声。
「君は?」
暗がりから歩いて出てきたのは、瞳の真ん丸い黒髪の女の子だった。
声を聞いた覚えがあるに決まっている。1週間ほど前、最後に学校に行った日に聞いた声だ。
「やっ、碇クン。久しぶりって言うほど時間も経ってないから……こんにちわ?」
疑問系で言われても困る。
名前は何だったろうか。霧島さんの友達であるということと、クラスメイトであることしか分からない。そもそも、一番重大な事が
分かっていない。何故ここにいるか、だ。ここは、普通の人がいる場所じゃない。
「不審げな感じの目で見ないでよー。そもそも、ワタシが――」
そういえば、彼女の言っていたことは、
『碇クン、一昨日だけどシェルターの近くの公園――行った?』
『マナと』
『キミ、紫の――』
紫の――01だっていうのか?
「キミぃ、聞いてるの?」
「え?」
「自己紹介よ。じ・こ・しょ・う・か・い!」
「あ……あの、えっと。僕は」
「いやいや、そっちは知ってるに決まってるじゃん。碇シンジクン。ゼロワンのパイロット様でしょ?」
常識のように言われると少し照れる。
「ワタシはユマ。ゼロツー専属パイロット石見ユマ。ユマって呼ぶこと」
ゼロツー。聞いたことのない名前だった。最も、01があるなら02があってもおかしくはない。
僕が知らなかっただけだろう。名前も、ここにいる理由も分かって問題はない。
「ついでに碇クンが来る前はゼロワンのテストパイロットも兼任。ワタシの体液が染み込んだLCLはどーだったぁ?」
何てイヤな笑顔だろう。
そもそもLCLは毎回張り返られているのだから、彼女の言っていることはおかしい。そんな理論的な思考を走らせながら、不覚にも
顔が赤くなる。
「赤くなっちゃって、かーわいー」
もういい。ダメだ。これ以上関わるときっとダメだ。逃げよう。迅速にこの場から逃走をはかろう。
徐々に後ろへと移動し、彼女との距離を広げていく。彼女はニタニタと笑っているだけで気付いた様子はない。
「はいはいゴメンねぇイジメすぎちゃった?」
ガシリと両腕をつかまれる。
分かっているならとっとと逃がして欲しい。
「ごめん、僕もう行かなきゃ」
腕を引き剥がそうとする。が、振りほどけない。女の子とは思えないほどの力で、僕の両腕がギチギチと締まる。
信じられないほどの膂力だった。
「マナを泣かせんなよ。あの子、キミに惚れてるよ、絶対」
うって変わって真面目な表情だった。
ああ、2人は本当に友達なんだなと思う。羨ましくもあり、妬ましくもあり、自分がどれだけ寂しいかを理解させられた。
僕にはそんな人はいないから。
「ゴメンね、ちぃっとばかし力んじゃった。ともかく、ヨロシク」
最後のヨロシクは、霧島さんのことなのか、それとも今後に対してか――。
それを聞く暇もなく彼女はこの場を後にした。
広い空間の中で身の置き場所に困り、何となく隅へとよしかかる。壁の冷たい感触がドクドクと鳴る心臓を少し大人しくさせる。
再び紫の貌を見上げた。爛々と光る双眸だけが、格納庫の闇を照らしている。
霧島さんが僕を好き――か。
驚くほど無感動だった。いや、少し違うか。驚いてはいるし嬉しいし、うろたえてもいた。心臓が早鐘を打っているのが証拠だ。
みっともないくらいにドキドキしている。
それでも、何かが違った。
冷めていた。
全てが冷え切っていた。
霧島さんがいるのは世界だ。嘘に固められた『世界』だ。僕は飛び出してしまった。戦いに、生と死の争いに、人と使徒の争いに、
僕は踏み込んでしまった。
もう、逃げられない。いや、これも少し違うか。逃げられないんじゃない――
「逃げたくないんだ」
知ってしまったから。
戦っていることも、争っていることも、苦しむことも、泣くことも、辛いことも、死にそうなことも、生きることも、敵意も、殺意も、
勇気も、僕は僕がそう願って知ってしまったから。
だから、それを知って、逃げたくない。
弱い。弱い弱いちっぽけな僕は、今逃げたらもっと弱くなってしまう。それが分かっているから。
きっと逃げても誰も攻めない。だからこそ、逃げたくなんかない。
――きっと、それが勇気。今の僕の少しの勇気。
「学校……ですか?」
「ええ、ずっと行ってないでしょう?」
確かに1週間ほど行っていない。元々、行っているという意識自体が希薄だったせいもあるけど、すっかり忘れていた。
「行かなきゃダメですか?」
「ダメ。あなた、自分がいくつだか分かってる? その年から学校通わなくなるなんて悲惨よ」
赤木さんは全く引き下がってくれない。
大体、行ってどうなるというんだろう。特に何をするでもなく授業を聞き流しているだけなら、ここにいたかった。少なくとも
ここは僕がいてもいい場所だ。
「それに、家にも帰ってないわよね? 別にここに住むなら住むで、引き払うなり何なりしたほうがいいわ」
それは確かにその通りだ。家賃だってバカにならない。
この1週間ずっと家に帰らず、病院か仮眠室で過ごしていたせいか、自分のマンションのことも忘れていた。
「分かりました。行きます。それと、マンションも解約してきます」
「はいはい、送るように言ってあるから、とっと行きなさい」
ネルフの社屋から出ると黒塗りの車が鎮座していた。この車で学校に乗り付けるのかと思うとゾッとする。ただでさえいいマンション
に住んでいるのに、これじゃ完璧にいいとこの坊ちゃんだ。
「あの、学校の手前の道まででいいんで……」
高そうな革張りの車内に腰を下ろす。
「遠慮するな。校門まで送る」
ここで聞こえる筈のない声に、耳を疑い目を向けた。
「ととと、父さん?」
「うむ」
やたら偉そうな態度もそのままに、何故か父さんが助手席に座っていた。
「何やってるのさ? 仕事は?」
「気にするな。俺が一番偉い」
そういう問題じゃない気がする。赤木さんの怒り顔が目に浮かぶようだ。
「何を恥ずかしがる必要がある。校門まで乗り入れても問題はあるまい」
「恥ずかしいよ。それに、」
「いじめか?」
別に驚きはしない。
当然だった。あの学校は監視されているに違いない。何故、この街が情報封鎖されているのかは分からない。
それでも、そうされている以上は何かがある筈だった。
しかも、あの学校には石見さんがいる。僕が来る前までは01のテストパイロットだったという彼女が。自惚れじゃなく、
今の僕は重要だ。そして当然彼女も重要だ。僕と同じクラスだったことも、偶然かどうかは分からない。
「やっぱり、知ってたんだね」
「ああ。だが――」
いったん言葉を切り、続けるべき言葉を噛みしめるようにスッと目を細める。
憂慮、憧憬、苦悩、悲哀。複雑すぎて読み取れない、大人の、オトコの、貌だった。
「だが、それを知っても何もしなかった」
それでよかったのだと思う。おかしな話だが、僕は今の今までずっと、いじめられていた事すら忘れていた。
色んなことが有りすぎて、『気をつけるべき事』から『どうでもいい事』になっていた。
何よりも父さんが僕を気にしていたということが、嬉しい。
だから、改めて言うべきだと思うのだ。今、この場で言うべきだと思うのだ。
「ありがとう、父さん」
久しぶりの学校は拍子抜けするほど退屈だった。たった1週間で何が変わるはずもなく、ただ淡々と授業は進み、休み時間には
教室は雑踏にまみれ、相変わらず僕は窓の外を眺めていた。1週間休もうとも、誰も僕に然したる興味は抱かない。
「碇クーン、おっす」
――わけでもなかった。
うんざりするほど明るい声は石見さんだ。サッと一瞬だけ周囲の喧騒が引き、すぐにまた騒がしくなる。
「おはよう、石見さん」
「ん、おはよ」
どうやら彼女は今登校してきたようだ。
「マナ、来てないね」
「風邪だって」
「どうだか。お見舞い行けよ、ぜひとも」
命令してるのかお願いされてるのか分かったもんじゃない。
それに、元よりそのつもりだった。あの日、僕が学校を早退して以来会っていない。それはダメだと思った。彼女はきっと、
きっと……僕を待っている。僕なんかを待っている。だから、行くべきだってそう思う。
思えば彼女が初めての友達だったのだろう。
一緒に歩いて、一緒に食事をして、一緒にベンチに座り、一緒にシェルターへと駆け、一緒に恐怖を感じ、
短い間だったけどそうやって過ごした時があった。
あの時。
路地裏で不良に絡まれる彼女を訳も分からず助けようとしたあの時、彼女が僕の腕を掴んでいたあの時、学校に来て欲しいと彼女に
言われたあの時、初めて僕は変われたのかもしれない。
そして、彼女も僕のために泣いてくれるのかもしれない。
<続く>
<後書き>
果てしなく体調が悪い。そりゃ、血圧検査で2回も3回も再検査になるわけだ。バイタル異常ってなもんだぜベイベ!<頭が異常
で、何気にHNがHIDEIに変わってたりする。単純に色々なトラブルを避けるために変えてみた。
深い意味はない。これまで通り気楽にHIDEりんと呼ぶがいいさ。HIDEりん……(うっとり
やたらとシンジの冷めっぷりが目立つ。このままじゃスカシンになりかねない気配。それはダメだと思う。
ちなみに、「石見」はそのまま戦艦「石見」から拝借。だからどうしたって言われりゃそれまでだけど。